十月とクレープと珈琲
十月の空は、何かを待っているかのように鈍い灰色をしていた。風も少し冷たく、秋が確実に訪れていることを感じさせる。そんな中で、クレープ屋の小さな看板が微かに揺れているのを見つけたのは、あまりにも唐突だった。かつての私は、こうした些細な風景に心を動かされることはなかったが、今は違う。何かが失われた後、人はその喪失を埋めようと無意識に細かな出来事に敏感になるものなのだろう。
店に入ると、どこか懐かしい甘い香りが鼻腔をくすぐった。カウンターの向こうでは、一人の女性がクレープの生地を焼いている。音も立てず、ただ静かにその作業に没頭している様子は、秋の静けさと呼応しているかのようだ。私は席に着き、しばらくその動きを見つめていた。注文をするべきなのだろうが、なぜか声が出ない。いや、声を出したくないのかもしれない。言葉にすることが、この静寂を壊してしまうような気がしたからだ。
やがて彼女が、そっとクレープを持ってきた。その表情には何の感情もない。ただの仕事として彼女はそれをこなしているのだろう。それが逆に心地よかった。私はそれに軽く頷き、珈琲も一緒に頼んだ。クレープと珈琲。何とも奇妙な組み合わせに思えるが、この日、この場所ではそれが自然な選択に思えた。クレープの甘さは、かつての記憶を蘇らせる。それは決して幸せな記憶ではなかったが、甘さがその苦さを少しだけ和らげてくれる。珈琲の苦みが、それを締めくくる。まるで過去と現在が一杯のカップの中で交錯するような感覚だった。
外を見ると、木々が風に揺れ、葉が一枚、また一枚と舞い落ちていた。時間は確実に過ぎ去り、何もかもが変わっていく。かつての自分も、もうここにはいない。それでも、何かを掴み取ろうとする気持ちは残っている。それがクレープなのか、珈琲なのか、あるいはただの風景の一部なのかはわからない。それでも、ここでこうして過ごす時間が私にとって大切なものであることだけは確かだった。
風が少し強くなり、店の窓がかすかに揺れた。私は珈琲を一口含み、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。十月の午後は、こうして静かに過ぎていく。何かが変わることを期待しながら、それでも何も変わらないままに。
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